
日本を変えた改革者「天智天皇」の生涯・家族・政治・伝説を調べてみた!
天智天皇とは何者か?
天智天皇(626年~671年)は、日本の歴史において極めて重要な天皇の一人です。
彼は 「大化の改新」 を主導し、律令国家の礎 を築いたことで知られています。
また、日本で初めて 「戸籍制度」 を作り、近江遷都 など、後の国家体制を整備する基盤を築きました。
しかし、彼の生涯は改革だけではありません。
家族(妻・子供) にも深く触れなければ、彼の人生の全貌は見えてこないでしょう。
本記事では、天智天皇の 生涯・家族構成・政治改革・関わった土地や伝説 まで、
誰よりもどこよりも詳しく 解説していきます!
天智天皇の生涯
1-1. 幼少期と家族構成
天智天皇は 626年(推古天皇34年) に生まれました。
幼名は 葛城皇子(かつらぎのおうじ) で、後に 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ) と呼ばれました。
両親
親族関係 | 名前 | 備考 |
---|---|---|
父 | 舒明天皇(第34代天皇) | 仏教政策を推進し、百済との交流を強化 |
母 | 皇極天皇(後の斉明天皇) | 二度即位した珍しい天皇 |
兄弟姉妹
関係 | 名前 | 備考 |
---|---|---|
異母弟 | 大海人皇子(後の天武天皇) | 壬申の乱で勝利し、天武天皇となる |
妹 | 間人皇女(はしひとのひめみこ) | 孝徳天皇の皇后 |
妹 | 大田皇女(おおたのひめみこ) | 天武天皇の妃、草壁皇子の母 |
妹 | 鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ) | 後の持統天皇、天武天皇の皇后 |
1-2. 妻と子供
妻(皇后・妃)
天智天皇には、複数の皇后・妃がいましたが、歴史的に記録が残るのは以下の通りです。
名前 | 関係 | 備考 |
---|---|---|
采女(うねめ)* | 側室 | 天智天皇の寵愛を受けるが、身を投げた悲劇の女性 |
大田皇女(おおたのひめみこ) | 妃 | 天武天皇の妃となり、草壁皇子を産む |
鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ) | 妃(後の持統天皇) | 天武天皇の皇后、後に第41代持統天皇 |
子供
天智天皇の子供には、歴史に名を残した者も多くいます。
名前 | 母 | 備考 |
---|---|---|
大友皇子(おおとものみこ) | 不明 | 壬申の乱で敗北し、自害(弘文天皇として追尊) |
阿閉皇女(あべのひめみこ) | 不明 | 天武天皇の皇后となる |
建皇子(たけるのみこ) | 不明 | 若くして亡くなる |
特に 「大友皇子」 は、壬申の乱(672年)で**弟・天武天皇(大海人皇子)**と戦い、敗れて自害しました。
そのため、天智天皇の血統は途絶え、天武系の天皇が続くことになります。
政治改革|大化の改新と中央集権化
乙巳の変(645年)
645年、天智天皇(当時は中大兄皇子)は、
中臣鎌足(後の藤原鎌足)と共に、蘇我入鹿を暗殺 しました。
この事件は「乙巳の変(いっしのへん)」と呼ばれ、蘇我氏の支配が終焉を迎えました。
大化の改新(646年)
翌年、「改新の詔」 を発布し、日本最初の本格的な政治改革を実施。
主な改革内容
- 公地公民制の導入(土地と人民を国家が直接支配)
- 班田収授法の制定(人民に土地を配分し、税を徴収)
- 地方行政の整備
- 新たな税制度の確立
これにより、日本は中央集権国家への第一歩を踏み出しました。
白村江の戦い|天智天皇が挑んだ朝鮮半島の戦争
天智天皇の治世において、最も大きな軍事的敗北となったのが「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)」です。
この戦いは、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍の間で、663年に朝鮮半島の白村江(現在の韓国・錦江の河口付近)で行われました。
戦いの背景
660年、唐と新羅の連合軍により、百済が滅亡しました。百済と密接な関係を築いていた日本は、
朝廷に滞在していた百済王子の扶余豊璋(ふよ ほうしょう)を本国に送り返し、
百済復興を支援することを決定しました。
661年、天智天皇(当時は中大兄皇子)は、百済救援の指揮をとるために
母・斉明天皇と共に筑紫の朝倉宮(現在の福岡県朝倉市)に滞在しました。
しかし、その年の8月24日(斉明天皇7年7月24日)、斉明天皇が崩御。
天智天皇は実質的な最高権力者となり、百済復興を目指して軍を派遣します。
戦いの経過
663年、日本は百済復興のため、大軍を派遣しました。
しかし、唐・新羅連合軍はこれを阻止するため、白村江で待ち構えていました。
8月28日、日本・百済連合軍は三つの部隊に分かれて攻撃を開始しますが、
唐・新羅軍は潮の流れを利用し、火計を用いるなどして徹底的に迎撃。
連合軍は大敗を喫し、約400隻の船舶が焼失し、多くの兵士が戦死しました。
敗戦後の影響
日本はこの戦いで大きなダメージを受け、朝鮮半島での影響力を完全に失いました。
また、唐・新羅軍による日本侵攻を警戒し、防衛体制の強化に迫られることになります。
これにより、天智天皇は国内の防衛を強化し、以下の対策を実施しました。
- 防人(さきもり)制度の強化:九州北部に兵士を派遣し防衛を強化
- 水城(みずき)の建設:大宰府の防衛のために築かれた堀と土塁
- 朝鮮式山城の建設:百済の技術を取り入れた城郭を九州や瀬戸内海沿岸に構築
また、667年には都を近江大津宮(現在の滋賀県大津市)に遷都し、
より強固な政治基盤を築きました。
白村江の戦いは、日本の外交政策を大きく変え、中央集権国家の形成と防衛体制の強化に直結する戦いでした。
天智天皇の死と壬申の乱
天智天皇は 671年 に崩御しました。
その後、後継者争いが勃発し、
弟・大海人皇子(後の天武天皇) と
息子・大友皇子 の間で「壬申の乱(672年)」が起こります。
最終的に大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位しました。
天智天皇の足跡と伝説
① 志布志(鹿児島県)
② 近江大津宮(滋賀県)
- 667年に遷都し、律令国家の基礎を築く。
③ 近江神宮(滋賀県大津市)
- 天智天皇を祀る神社。
④ 三井寺(滋賀県)
- 天智・天武・持統天皇の産湯の井戸がある。
⑤ 観世音寺(福岡県太宰府市)
- 母・斉明天皇を弔うために建立。