蒲生の大楠 日本一大きい木

日本一大きい木 蒲生町の大クス

国の特別天然記念物であり、日本最大の巨木「大楠」として知られる「蒲生の楠」は、昭和63年の環境庁による巨木調査で、その称号を公認されました。この楠の幹の下部は不規則な形状をしており、内部には直径約4.5メートル(畳8枚分相当)の大きな空洞が存在します。その枝は全方向に広がっており、その光景は、空から降り立った巨大な鳥のように見えるとも評されます。
伝説によると、和気清麻呂が平安遷都を祈願したとされ、保安4年(1123年)、この地の領主であった蒲生上総介舜清によって、豊前国宇佐八幡宮をこの地に迎え、蒲生八幡宮(正八幡若宮)が創建されました。その時、すでに「蒲生の楠」は神木として崇められていたと伝えられます。

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日本全国の巨木ランキングでは、蒲生の大楠は鹿児島県蒲生町にある八幡神社内に位置し、幹の周囲は2,422センチメートルにも及び、全国で最も大きな楠木として、国の保護制度下で特別な認定を受けています。「トトロが住んでいそうな木」なんて言われていますが私の感想では、「にこにこぷんの木」。なんですが若いやつにはちっとも伝わらなくて悲しいね、じゃじゃまるぴっころぽろり。

蒲生の大クスと和気清麻呂の伝説

和気清麻呂は、奈良時代末期から平安時代初期にかけて活躍した公卿です。彼は、宇佐八幡宮の神託を伝えることで、道鏡の皇位継承を阻止し、後の平安遷都に貢献した人物として知られています。和気清麻呂が活躍した時代は、藤原仲麻呂の乱後の政治的混乱期でした。当時、称徳天皇は僧侶である道鏡を寵愛し、皇位継承者にしようとしていました。これに危機感を抱いた和気清麻呂は、宇佐八幡宮に参籠し、神託を伺いました。神託は、「皇位は天照大神の子孫が継承すべきであり、道鏡は皇位にふさわしくない」という内容でした。和気清麻呂は、この神託を称徳天皇に伝え、道鏡の皇位継承を阻止しました。しかし、道鏡は権力を失うことを恐れ、和気清麻呂を大隅国へ流罪しました。伝承によると、和気清麻呂が流罪の途中、この大楠の下で休憩したと言われています。彼は、この大楠に神が宿っていると信じ、平安遷都の成功を祈願しました。その後、和気清麻呂は名誉回復を果たし、桓武天皇に重用されます。そして、桓武天皇は、和気清麻呂の意見を取り入れて、平安京への遷都を決断しました。平安遷都の成功は、和気清麻呂の強い意志と、蒲生の大楠に宿る神々の力によるものだと信じられています。

薩摩藩 島津義久にまつわるクスノキ伝説

この大楠にまつわるもう一つの有名な話に、薩摩藩の英雄、島津義久がこの地で戦勝祈願を行ったという伝説があります。島津義久は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。彼は、薩摩藩を統治し、豊臣秀吉や徳川家康に仕えた人物として知られています。伝説によると、島津義久は、蒲生の大楠の下で軍議を執っていた際に、突然の雷雨に見舞われました。しかし、大楠の枝葉が雨を遮り、義久と家臣たちは濡れることなく助かったと言われています。このことから、義久は蒲生の大楠を神木として崇敬するようになり、大楠の周りに石垣を築いたり、社殿を建立したりして、保護しました。蒲生の大楠は、薩摩藩にとって重要なシンボルの一つでした。大楠は、薩摩藩の繁栄と安全を守護する神木として、人々に敬仰されていました。また、大楠は、薩摩藩士の精神修養の場としても利用されました。藩士たちは、大楠の下で座禅を組んだり、武術の稽古をしたりして、精神を鍛えました。

蒲生の大楠 アクセス

〒899-5302 鹿児島県姶良市蒲生町上久徳2259−1

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