ナイロビ スラム街ホームステイ【ケニア旅行記】

アフリカへ

1999年4月、20歳になったばかりの頃、初めての一人旅で東アフリカに行った。
なぜアフリカかというと、
テレビや雑誌で見かける地平線にでっかい太陽が沈んでいく風景を見たかったのと、
少年が好きな物語によくあるように、
旅に出れば「何か」または「本当の自分」が見つかって人生なんとかなると思っていたから。
実際はあそこで道を踏み外していたのかもしれないが、
今更そんなこと言っても何の意味もないこともわかる歳になってしまった。
いつか書き残しておきたいと思った旅からもう20年も経っていることにも今更驚かない。
今はもうないエジプトの日本人宿サファリホテルに住み続けていた、
にゃんこ丸山さんの歌のメロディーはちっとも覚えていないが

「豊かな青春、貧しい老後」

というバックパッカーの悲しい末路を言い当てたパンチラインは今でも覚えている。
旅に出れば何かが変わると思い、出かけてはみたが、
旅そのものが何かをしてくれるわけでもなく、
旅を仕事にできないかと「旅する雑貨屋」と名乗り店を始めたが、
結局その店のせいで本来求めていた「自由な旅」にも出れなくなり、
いつの間にか店もやめてしまった(休んでるだけでやめたつもりはないのだが)。
すぐに消えてしまう足跡しか残せなかった、
何者にもなれなかった。
それでも生きてる限り人生という旅は続くし、
父方にしても母方にしても自分に似たタイプの人間は40代前半で死んでいるので、
今のうちに書き残しておかないと、という気になった。

ケニアナイロビホームステイ

ケニアの首都、ナイロビで最初に泊まったホテルの名前はもう忘れた。
マネージャーのムライヤ(正しくはムラヤだと思う。
後に日本に留学したことがある従兄弟を紹介されて、
その彼が「ムラヤ=村屋」で日本人に覚えてもらいやすかったという話をしていたが、
僕はずっとムライヤと呼んでいたのでそう書く)とは初対面から仲良くなり、
二日目に会った夜にはビールを飲みながら「うちにホームステイしに来ないか?」と誘ってくれた。
ムライヤの家はイースリーという地域で、ナイロビ郊外にあるらしい。

翌日から一週間のサファリツアーに行く予定だったので、
断る理由もなく、ツアーから帰ってきたらムライヤの家に遊びに行く約束をした。

ケニア・サファリツアー【アフリカの大自然の中で野生動物と出会う旅】

一週間のサファリツアーからナイロビに帰ってきた。
ナイロビのホテルで一泊して翌日、ムライヤと一緒にイースリーに出発した。
現地では“マタトゥ”と呼ばれる派手にペイントされた乗り合いバスに乗りこんだ。
初めて乗ったマタトゥの車内は、ラスタカラーを基調に塗られていて
ボブ・マーリーやローリン・ヒルの写真があちこちに貼られていた。
ノリノリのスワヒリ語のケニアポップが大音量で流れていた。
マタトゥ運転手は謎の植物の茎のようなものをクチャクチャ噛んでいる人が多く、
後から「あれは”ミラ”っていう合法ドラッグで中毒になるし、
睾丸が腫れ上がるから買うな」とムライヤに教わった。絶対買わない。
“ミラ”のせいか国民性か、路上ではときどきカーチェイスが行われ、
運転手同士の張り合いになぜか乗客まで参加して窓から相手の車にヤジを飛ばすシーンが頭から離れない。

ナイロビは高層ビルもたくさんあって道路も割としっかりしていて都会なのだが、少し離れると景色が変わった。
頭に籠を乗っけて歩く人や路上で売っている色鮮やかなフルーツは思い描いていたアフリカの雰囲気だった。

途中でひとまわり小さい、日本のTOYOTAハイエースを改造して作られたマタトゥに乗り換えた。
こちらはギュウギュウに人が乗り込み窮屈ではあるのだが、なぜだかみんな明るい。
マタトゥに限らず東アフリカのあちこちで日本の中古車は大活躍で、
〇〇保育園とか○○株式会社だとか、元は何のための車だったか容易に想像がつき、
誰かに話したくなるのだが日本人は滅多に歩いていない。
この旅で会った日本人の旅人は3人だけで、うち2人は帰りのナイロビ空港で出会ったお姉さん二人組である。

イースリーに到着すると、そこはスラム街みたいなとこだった。
急に雰囲気が変わり、路上で酔っ払ってる人もいて、シンナー臭い小学生くらいの子供もいる。
そしてこの時僕は「イースリー」じゃなく、アルファベットと数字で管理されているエリア「E3」なんだと勝手に納得した(多分違う)。
「路上で売っている酒は工業用アルコールだから飲んだら目が潰れる。絶対飲むな」とムライヤがでこぼこの路上を歩きながら説明する。絶対買わない。
カツアゲにビクビクしながら不良がいっぱいの街を歩く中学生のように不安げに歩いていたと思う。

ムライヤの家に着いた。共同で住んでいるアパートの一階で、吹き抜けにはみんなの洗濯物が干してあって日当たりは悪かった。
干してあったのはカンガという派手な布が多かった。大体の家にはシャッターが付いていて、南京錠を何個か使うのが常識らしかった。
「向かいの女は売春婦だから誘われても行くなよ」とムライヤが笑って言った。

ムライヤは奥さんのジー(Graceの頭文字でG)と3歳の娘ウィッチニー(WHITNEY)と三人で暮らしていた。
停電がちだが電気も使えたし、テレビもあった。洗濯は手で毎日ジーが洗っていたから必要なさそうで、冷蔵庫はなかった。
ウイッチニーはただただ可愛くて、娘が欲しいな、と人生で初めて僕に思わせたのはこの女の子だ。
保育園に行き始めていた彼女の本で一緒にスワヒリ語を勉強したりした。

トイレは部屋を出て正面から右隣にある共同の便所兼シャワールームで、手前の手洗い場ではしょっちゅう誰かが洗濯をしていて、
用を足しにに行くたびに珍しがられジロジロ見られ、たまに話しかけられる。
シャワールームと言っても水しか出ない蛇口があるだけで、タライにお湯を張ってこのシャワールームに持ち込み、桶を使って体を洗うスタイルだった。

道でムズング!と叫ばれることが結構な頻度であった。
ムズングとは白人のことで、黄色人種もひとまとめで「白い人」らしい。それがおかしかった。
鹿児島出身の僕は割と島意識が強い方だと思うんだけど、北海道で「内地の人」って呼ばれた時と同じ感覚だった。

ケニアで美味しかった料理の記憶はない。
そもそも日本からかなり遠いので味覚も遠いこと、メシがまずいイギリスの植民地だったこと、
色んな理由があるだろうし、そもそも僕のような味音痴が料理を語ること自体はばかられるのだが、
アフリカのご飯が美味しかったという旅人には今のところ会ったことがない。
そして食べてみたらイメージ通りまずかった。
一番苦手なやつはウガリというトウモロコシの粉を練った、味のしないそばがきみたいなやつで、
日本でお米がポピュラーなように、ウガリはケニアの家庭料理としては定番のものらしかった。
ムライヤはウガリが大好きだと言っていた。
お昼はいつも近くまで歩いてポテトを買ってきてムライヤの家で食べていた。

日本のファストフード店のLサイズ2つぶん位の量のフライドポテトに、
ピリピリという香辛料のソースを少々。ピリピリはスワヒリ語で唐辛子という意味だ。
チャカチャカは速い、ポレポレは遅いなどスワヒリ語は2回繰り返しの言葉が多くて覚えやすい。
ムライヤ一家からはグンジグンジと無駄に名前を2回呼ばれるようになった。

このイースリーという地域にはソマリ族というソマリアからやってきた部族が多く住んでいる場所らしい。
ムライヤの一家は、ケニアでは一番多いキクユ族の出身なのだが、
よそ者にはわからない部族間の対立というものがあるらしかった。
ムライヤの従姉妹は石を投げられて、頭から血を流して帰ってきたこともあった。
ただ道を歩いていたら突然窓から石が飛んできたそうだ。
僕自身、イースリーの路上で写真を撮っていたら、
レンズを向けた方向にいた男から突然追いかけらたことがある。
何とか走って逃げ切ったがかなり怖い思いをした。
イースリーに限らずナイロビはアフリカの中でも特に危険度の高い街で、
絶対に通ってはいけない通りなどのアドバイスも受けた。
絶対に通ってはいけない道ではないところで、「ナイフを持った強盗に襲われた」と、
白シャツを真っ赤にして宿に戻ってきた白人を見たのも、この後再び訪れたナイロビだった。
血を見るのはとても怖いことだ。石が飛んでくるかもしれないところを歩くのはストレスだった。

日本を出て2週間くらいか、急に寂しくなった。
今夜も晩御飯はウガリだ。
辛い。もう帰りたい。ウガリが喉を通らない。

寝る前にムライヤが、メモ帳を破った紙に、僕でもわかるようなシンプルな英語で書いた手紙をくれた。

「ここは汚いし、臭いし、危ないし、メシもまずい。
お前は友達だ。そしてお前は自由だ。
お前が行きたいなら自由に出て行って良い。お前がいたかったら自由にここにいて良い。友達だから」

今日の僕の様子を見て心配して書いてくれたものらしかった。
自分の小ささが急に恥ずかしくなった。
そしてウジウジしていた自分が馬鹿馬鹿しくなった。
自分でこの場所に来ておいて何ていう態度だったんだろうと恥ずかしくなった。

今すぐ日本に帰っても良いし、何なら一生帰らなくても良いんだという自由。
言葉にすると陳腐な「そんなこと」になってしまうけど、「知っている」ことと「わかっている」ことは違う。
そして「できる」ことには限りがあって、その中の選択は自由。
僕はこの一人旅で、知ったつもりでいた自由が少しだけわかったのだと思う。

この体験の後からは自由に楽しく旅ができるようになったし、
ムライヤの言葉は僕を実際に自由にしてくれた。
路上で物乞いがウンコを投げてくる場面でも笑って逃げれる余裕ができたし、
無数にいるゴキブリを素手で殺せるようにもなった(今やれと言われたら抵抗はある)。
ウガリもミルクがゆも好きじゃないということも正直に伝えた。

ムライヤの家を出て、モンバサに向けて出発した。
タンザニアのザンジバルまで行ってそしてまたナイロビに戻ってきた。
イースリーのムライヤの家を訪ねて日本に帰るまでの数日を過ごした。

最終日の夜、別れ際。
それはそれは号泣だった。

数年後三度目に訪れたケニアで、ムライヤが金持って逃げるとも知らずに。

続く。

ケニア旅行【アフリカで物乞いがウンコ投げてきた話】