エストレージャデルスル

te presento a mi amigos
ナスカの小学生
地上絵の出てこないナスカ滞在記

viva la vida!

ヴィヴァ・ラ・ヴィダ。スペイン語で直訳すると「人生を生きよ」、「人生万歳」「人生は最高だ」と言った意味で使われるご陽気な言葉だ。ペルー・ボリビアで出会った現地人の誰かが言った言葉を何度か耳にして覚えた。今思い返すと南米を旅していた頃の僕は人生で一番日焼けして真っ黒で、人生の夏とはまさにあの時だったのだと今は思う。夏は終わったのだと素直に認められるようになったとも言えるし、認めざるを得なくなったとも言える。夏が終われば秋が来るし、その後は冬が来る。それだけのこと。南米は今頃暑いんだろうな、と雪が積もり始めたマイナス6℃の北海道で思う人生の秋頃。

Amigos y Amigas

南米旅行で一番耳にするであろう単語、アミーゴはスペイン語で男友達という意味で、女友達はアミーガと言う。言葉にオス・メスがあり、オス牛はトロ、メス牛はバカ。性別によりロス・エンジェルスとラス・ベガスのように冠詞が変わってくる。スペイン語というのは話そうとすると明るくならざるを得ない魔法がかかっている気がする。そしてこの旅はアミーゴとアミーガ、「友情」と「人間愛」について大きく学んだ旅だった。

Njoroge

そもそもこの旅は、ンジョロゲが大学の冬休みを使ってペルー旅行に行くという計画に僕が便乗したもので、この後も何度も彼と旅に出たり、旅先で待ち合わせすることになるのだが、その記念すべき第一回目がこの旅だった(ンジョロゲというニックネームはこの後のケニア旅行で付けられる)。

ンジョロゲは僕が高校三年生の時に入学してきた一年生で、もともとお兄ちゃんが同級生だったのだが、長い付き合いになるアミーゴというのは、初対面からテンポ良く近づいていくもので、ンジョロゲともそうだった。すぐにお兄ちゃんよりも弟のンジョロゲと仲良くなった。会った頃からキレ者で、人間としてのスペックの違いというものを感じると同時に、突き抜けて頭が良すぎる人間というのはほとんど馬鹿なんじゃないかと思うときもある。

大学生だったので途中で帰ってしまったけど、彼がいなければこの旅に出ることもなかった。そして今でも相変わらず僕の人生のガイド役であり、一生大切にしたいアミーゴの一人である。と、こんな照れくさいことも、あの旅のお別れのときから変わらず思うし、あの時よりも照れずに言える。何ならハグして言いたい。
ンジョロゲとエクアドル人ヒッピー
エクアドル人ヒッピーとンジョロゲ

Peru ペルー

ペルーは地図でいうと南米の西側にある国で、首都はリマ。使用言語はスペイン語。観光地としてはインカ帝国の失われた都市、クスコから近い「マチュピチュ遺跡」が有名。「ロモ・サルタード」、「セビーチェ」などが人気のペルー料理。僕は路上で売られている「アンティークチョ」という牛の心臓の串刺しが好きだった。ペルー人はイメージ通り明るかった。長距離バスのインディヘナのおばちゃんは強かった。バスの通路側に座っていたンジョロゲが、インディヘナのおばちゃんの背負っているイモらしき袋がグイグイ押し当てられていることに抗議したら、殴るぞってポーズで返されていたのも今では良い思い出。

Nazca ナスカ

ナスカは地上絵(と遺跡と骨)が有名な町で、ほとんどの旅人が一泊か二泊して地上絵を見たら移動してしまうという小さな町だったが、のんびりとした雰囲気と、この町でできたアミーゴとアミーガが気に入った僕は、この旅で三度ここを訪れた。首都のリマから始まって最初の目的地がナスカだった。バスは早朝到着、町に着いた時思い出したのは小学生の頃の夏休みの朝、ラジオ体操に行く時の空気。

Estrella Del Sur エストレージャ・デル・スル

ナスカで泊まった安ホテルはエストレージャ・デル・スルという名前だった。南の星という意味。そういえばこの頃の僕はやたらと星型のものを収集していた。その意味をわかっていて行ったのか、後から知ったのかは覚えていない。多分偶然だったと思う。シンクロニシティとか偶然の一致とかをやたらと気にしていた時期だった。

エストレージャデルスル
ルイサ、ミリアム、ルイス エストレージャ・デル・スルのスタッフたち

Miriam ミリアム

ホテルで一番英語が堪能だったミリアムとは一番最初に仲良くなった。ミリアムはいつも屋上で洗濯物を干していて、それを横目に日焼けをしながら音楽を聴いたり本を読んだりするのがナスカでの僕の日課だった。仕事の合間にはミリアムも一緒にくつろいだ。前世や生まれ変わりがあるとしたら、ミリアムとは兄妹だった気がする。近くにいるだけで何だか安心するアミーガだった。

Mas negro マス・ネグロ

当時の僕の仮説によると、日照時間はそこに住む人の性格に影響を与えるし、日光を浴びれば浴びるほど太陽のパワーを皮膚から吸収して元気になる。日焼けは正義、黒ければ黒いほど良いという思想で、なぜだかミリアムも付き合ってくれた。コーラを塗ったら日焼けしやすいらしい、いやニンジンをすり潰したやつが良いらしいだとかいう民間療法的な日焼け剤を塗って屋上で寝転がっていた日もあった。合言葉はマス・ネグロ(もっと黒く)。帰る直前には現地人にも負けない黒さで、ペルー人にもペルー人に間違われスペイン語で道を尋ねられるくらいだった(しかしこの後のアフリカ旅行でアフリカ人に皮膚の黒さで勝つのはどう頑張っても無理だと気付く)。

OVNI オブニ

ミリアムとは前世や来世、オブニ(南米ではUFOをOVNIというらしい)と言った不思議なお話で盛り上がることが多かった。南米ではオブニの目撃例が多いらしく、信じている人も多かった。海の底に基地があると言う説を唱えているホテル従業員もいた(誰だったかは忘れた)。

Amiga アミーガ

宿で働いていた、ミリアムじゃない方のもう一人の女の子(誕生日パーティーにまで呼ばれたのに名前を忘れてしまった)が急に仕事を辞めると言い出した。次にやる仕事はまだ決めてないと言っていた。数日後、いつものようにエストレージャ・デル・スルの屋上でいつものようにミリアムが洗濯物を干している横で日焼けに勤しんでいると、どこか遠くから呼ぶ声がした。見回すと数件離れたホテルの屋上からその子が手を振っていた。ペルー人の職場と人間関係に対する軽やかさというか爽やかというか、良い意味で仕事に比重をかけ過ぎてないというか、言葉にするのは難しいが、明らかに日本人の感覚とは違うものを感じた。

急に部屋に来て写真を撮れと言ってくる新人の従業員のお姉さん

Luis ルイス

ルイスは当時三十八歳、僕の十六個年上だった。この年の差は、僕が初めて皿洗いのバイトをしていたお店の大将と同じで、尊敬と恐怖でとてもじゃないがアミーゴと呼んで良い関係性ではなかったし、故郷に帰れば今でもそれは続いているだろう。グイグイ人間関係を縮めてくれる十六個年上のアミーゴは、日本にいるときの人間同士の中に存在する「年の差」という概念をぶっ壊した。
夕食の時間前後になると、受付の前で自分の暇つぶしも兼ねたスペイン語の授業を毎日してくれた。一緒に酒を飲みに行って酔っ払ってホテルに帰ってきて、客であるはずの僕の部屋のベッドに寝ていった、前代未聞のホテル従業員でもある。
日焼け
ルイスと一番黒かった頃の僕

El Hombre Propone Y Dios Dispone エル・オンブレ・プロポネ、イー・ディオス・ディスポネ

エル・オンブレ・プロポネ、イー・ディオス・ディスポネ。直訳すると「男は提案する、神が手配する」、人間は選ぶことはできてもうまくいくかは神様次第。日本語で言うと「人事を尽くして天命を待つ」みたいな意味だと思う。ルイスの口癖だった。方向は選べるけど、到達できるかは運次第、これはたしかにそう思う。色々教えてもらった中で、今でも唯一覚えているスペイン語のことわざ。
ナスカの子供たち

Pollo ポーリョ

ポーリョは鶏肉のことで、町に数件必ずあるファーストフード的なチキンの店。三度目のナスカ滞在中は、エストレージャ・デル・スルの並びにあるポーリョ屋さんに、毎日ここで食べるからと交渉して、約束通り毎日通った。通うたびにサービスが良くなり、オーナーのおばあちゃんに気に入られたため、最終的には裏口から入り、二階の家族ルームでご飯を食べるようになった。自分の孫のように良くしてくれて、お別れの日には背中を見せなさいと言われ、呪文のようなものをブツブツ唱えたあと、十字を切って何かおまじないのようなことをしてくれた。意味はわからなかったが、愛は感じた。おばあちゃん子だった僕は(仲は悪かったのだが)このポーリョ屋のおばあちゃんが大好きだった。もしもまた僕がナスカを訪れる日が来たとしても、僕のおばあちゃんと同じように、きっともういないのだろう。
ポーリョ屋さんの子供たち

Hasta la vista アスタ・ラ・ビスタ

夏はいつか終わるし、夏休みも終わる。四月なのに秋めいてきた、という南半球の季節感は新鮮だったが、ナスカとのお別れが近づいてきた。ルイスが「親戚に会いに行くついでだから」と、リマまで付いてきてくれることになった。ナスカからバスに乗ってリマまで移動した。

リマのホテルではルイスと一緒の部屋に泊まった。夜、ホテルのテレビで映画「タイタニック」をやっていたのでダラダラ観ていると、船が沈没して逃げるシーンの少し後に、突然地震が起こり、ホテルの外へ慌てて逃げ出した。ペルーも大きい地震が少なくない国だと知っていたし、二階の部屋から階段を焦って降りる僕を、先を走っていたルイスは振り返ってさっきのディカプリオの真似(スペイン語吹き替え)をしながらラピド!(急げ)と笑顔だった。

翌日のリマ空港、ゲートの前までルイスは付いてきてくれて、見送ってくれた。いつものお別れには涙がつきものだけど、この旅は笑顔で終わった。ルイスと固く抱き合って、日本に帰った。アスタ・ラ・ビスタ。また会う日まで。
ナスカの夕焼け

Recuerdo レクエルド

こうやって思い返してみると、随分と記憶は薄れているし、細かいことなんてどうでも良くもなっている。それでも、大切にしたい忘れたくない思い出は、楽しかった夏休みの記憶のように、いつまでも心のどこかに残っていて、それは帰国後すぐに、みんなに土産話でしていたものとほとんど同じだと気付く。

時間はとめどなく流れていくし、全宇宙全てのものは変化していくし、変わらないものなんて何もない。変えたくないものがある場合、変わらないように、維持しようと意識していなければ勝手に変わっていってしまう。変えたくなくても変わってしまうことも、もちろんある。同じ場所に旅しても、そこにいるメンバーが同じで、同じ景色ということはまずありえない。

旅の記憶は待ち合わせ場所で、そこにいたどちらかが、誰かが生きていれば、少なくともそこでのアミーゴやアミーゴには頭の中(胸かもしれない)でまた会える。

現状の僕はしばらく海外旅行は諦めていて、それも自分が選んだ選択であって、制限された自由の中に自由を見つけることしかなく、それでも旅を諦められない僕は、日本国内をちょこまかと旅していくんだろう。

今、ここと、心の半径三メートル内に存在するアミーゴやアミーガへの愛を忘れずに生きていくしかない。思い出を文字にしてみたら、人生ってやっぱり良いものかもしれないと思い始めた。

ヴィヴァ・ラ・ヴィダ。生命を讃えよ。

グンサン この記事を書いた人

1979年3月生 温泉と焚き火と森林が好きな泳げないうお座ひつじ年。旅した国はケニア3回・タンザニア・エジプト2回・インド2回・モルディブ・スリランカ・イギリス・フランス・オランダ・タイ・ネパール4回・ペルー・ボリビア・韓国3回(うち1回は高校の修学旅行でこれが初海外)・カンボジア・アメリカ2回(うち1回は友達の挙式と新婚旅行にハワイ)、あとビーマンのトランジットでバングラディッシュ一泊、香港半日。

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